【開高健 「輝ける闇」「夏の闇」】を読む。小説ってこんなんだったっけ・・・
開高健を読むという課題を自らに課していた。
開高健の「輝ける闇」「夏の闇」を読んだ。
小説ってこんなんだったっけ・・・
というのが感想。
たくさんのエピソードが重なり、形容詞や副詞や、とにかく描写が細かい。
このエピソードや描写がなければ話は進まないかというとそうでもない、一見とりとめもない描写。
この文で何を言いたいのか、文の意味は分かるんだけど、全体における位置付けが、私にはよくわからない文が多い。
濃厚。
わたしはこう理解することにした。
誰もが生きていて、さまざまな事柄を体験したり、通り過ぎたりする。
それらの自分にとっての意味など余り考えることはないのだが、それらが積み重なって、自分が構成されている。意識してるもの、意識してないもの、もろもろが自分を作っている。
そのもろもろをできるだけ紙に残す作業をする。
そういう曖昧な感覚の描写がこの小説にはある。国語の問題の「これは何を表していますか?」では答えられない、形のない、けど記憶に残る事柄の描写。それらが作品の登場人物を作っている。
全くもって、アナログな描写。かすかに関わる。
最近、昔(一応、意味もなく1980年以前としておこう。)の小説を読んでいなかった。
最近の小説は、存在する1文、1文に明確に意味がある。
最近の小説って、いわゆる純文学系は池澤夏樹と平野啓一郎ぐらいしか読んでない気がするけど、かなりわかりやすい。文の意図が明確である。ミステリーは一杯読んでるけど、同様である。
デジタルっぽい文章構成。
大江健三郎も1980年ごろ以降の作品はわかりやすい。初期の作品はもっともやもやしていたような・・・
開高健と最近の小説の書き方のどっちがいいという問題でもない。
ただ、人間のもやっとしたありようを久しぶりに意識したということである。
で、ほかの昔の小説は?と思うけど、久しく読んでいないので、よく覚えていないのである。
生きていると、課題はどんどん増えていく。
どれだけ読めるかなあ・・・
あと、最近ディケンズを再読したくなってきています。
読ませていただいているブログでも最近ディケンズを読んだという文章を見ましたし、ディケンズの人間描写が無性になつかしいのです。
きのうは、カレル・チャペックの「いろいろ人たち」をベッドの中で読んでいたのですが(これも再読)、鼻かぜを引いて、重い頭に救いか忘却を求めて、書斎で本を探すとき、最終的に安心して手に取るのはディケンズであろうという文章を読みました。更に、ディケンズがわたしを呼んでいる気がします。
ディケンズは何から読もうかなあ・・・長いからなあ・・・