カミュ【ペスト】を読む。 愚直に信念に生きる人間を描いた。
はじめに
昨年、コロナウイルスが拡大したころ、カミュの「ペスト」はよく売れていた。
昨年初夏にわたしが自分の本の断捨離をしたとき、家にあるのに気づいて、読もうと思って残しておいた。
昭和60年印刷の新潮文庫。大学生の時に買ったようだが、買った記憶にもないし、読んでいない。
先週やっと読む気になった。
一気に読んだ。わたしの価値観ゾーンにストライク。
こんな(私の価値観からすると)すばらしい人間が描かれたものを知らない。
わたしにとってなんか「道徳」の教科書みたい。
こんな冷静で熱い小説を知らない。
そして、文の1つ1つが細かく思慮に富んでいる。
わたしの中のベスト小説にいきなり躍り出た。
昨年売れて、ほかの人はどんな感想を持ったのか、ネットで調べてみたが、ほどんど見つけられなかった。他者の感想に大いに興味があるところだ。
そこで、私の感想を書くことにした。
コロナとの関係
わたしは初めはコロナの状況との関連性の観点から読み始めた。これは昨年来読まれた方の動機と一緒だろう。
今回のコロナ禍を体験中のわたしたちが見て、感染の深刻化・長期化による人間の心理状況の変化は、共感できる。
別離への不安・恐怖心・囚われの感覚・事実の否認・個人的な感情の優先・娯楽・絶望・不信・狂気・無関心・事態の鎮静化に対する不信と期待・そして喜びの復活
これらが、丁寧に描写されている。
しかし、ペストはコロナより可視的に病状がひどく死亡率が高いため、特に日本人にとっては強烈度はペストが上回っており、人間の心理の闇はペストが深そう。
一方、大地震からの復興、原発事故からの復旧についても、この「ペスト」の心性との共通性を認識すべきだとと思う。
しかし、わたしにとって共通性は今や問題ではない。
ある意味で、現実は常にペストがあるのだ。(これは、小説でも出てくる比喩です。)そのペストにどう向き合ったか、さまざまな人間たちの処し方・生き様、これがこの小説のテーマである。
カミュ=不条理との関係
カミュは文学史の中でカフカと並んで不条理を描いたという位置づけだろう。
「異邦人」はいかにも不条理だった。
「ペスト」について、宮崎嶺雄氏の解説でも登場人物の不条理人ぶりが書かれている。が、わたしには全然不条理の文学とは思えなかった。カミュの不条理の定義について再確認するために、「シーシューポスの神話」を再購入し再読したが、不条理人であることは今や特異な特質ではないと改めて確認した。
また、現代は、現実が常に不条理であり、その中をみんな生きており、その不条理さを皆多かれ少なかれ感じている。したがって、小説のペストという状況には違和感を感じない。
病気のペストと向きあうことのほかにも、登場人物はそれぞれ不条理を抱えているが、現代の人からすると、それも当然のことである。だから、多くの登場人物が不条理を抱えながら、「信念」の人であることこそが、現代においてこの小説が読まれるべき重要な部分だと思う。
ともかく、この小説をあまり「不条理」と結び付けて読まなくていいんじゃないかなあ・・・
繰り返しになりますが、登場人物それぞれの人の「信念」の小説だと思います。
登場人物
以下に記す登場人物は自分のするべきことをたんたんとこなしていく。
わたしが、共感するのは、リウー、タルー、パルヌー、オトン、カステルである。
特に、タルーはわたしにとって、理想的な人である。こんな人でいたい。
コタールは悪人キャラクターなのであるが、自分が幸せでありたいという気持ちに正直な人であり、そのほかの「信念」の登場人物たちの、鏡に映った別の自分であり、だから、タルーはコタールに共感していないが、リウーはコタールの行動に理解するところがあるという設定であろうと考える。
リウー(医師)
官僚主義的な行政の中で、ペストの蔓延を防ぐため献身的に病人を診療する。ペストが人の敗北に導くとしても、人の命を守ることが使命のすべてであると信じ、それを続ける。その価値観は貧乏からきていると述べている。神の意志を信じていないが、神父パヌルーも人を救おうとしていることは理解している。
妻は遠地で療養中。ランベールの町脱出にも理解を示す。
コタールの自分が逮捕されることを嫌悪しペストを味方にして生きていることも、ある種の共感を持っている。
すべての場面で冷静であろうとしているが、時折感情の殻がひび割れる。そこも人間らしい描かれ方である。
タルー
人の些細な行為にも興味関心を抱きメモを残している。自ら保健隊を発案して組織し、ペストの蔓延を防ぐことに奔走する。
タルーは次席検事の子供として裕福に暮らしていたが、父親が裁判で人に死刑を要求するのを聞いて、人が人を死に追いやることができることを嫌悪し、家を出て政治運動を行っていた。しかし、そこでも人が殺されるのを見て、どのような立場にいても自分が殺害者の側にいることに気づく。
それ以降、一切の人を死なせたり、死なせることを正当化するものを拒否して生きている。
ランベール
新聞記者。取材中にペストに巻き込まれ、街を出られなくなった。パリにいる愛人のところに戻ろうと奮闘するが、最後に自分だけが街を出て幸福になるこは恥ずべきことだと留まり、保健隊で活動する。
グラン
老齢の市臨時補助職員。地位を約束されながらかなわず、妻も去っていった。その妻への愛情を持ったまま、地味に誠実に仕事を続けている。保健隊の事務も行う。夜はある文章を書くことに費やしているが、それは単に1文に推敲を重ねている妻あてのものと判明する。
ペストに罹るが、血清で回復する。
パルヌー
神父。まず、ペストを神による災禍だと断定した。
保健隊でも活動し、その中で苦しんで死ぬ少年の姿を見る。
これまで書斎の人だった彼が、苦しんで死んでいく少年という現実に直面することで、信者や一般に人々との共感を持つ。
彼(パヌルー)はもう「あなたがたは」とはいわず、「私どもは」というのであった。
そして、キリスト教徒としての方向性に迷うが、次のような結論に達する。
神を信じるか、すべてを否定するかのどちらかであり、すべてを否定することをできない。神への愛は困難なものであるが、この愛のみがこどもの苦しみと死を消し去ることができる。
つまり、どのようなことであれ、神のしたことを受け入れるという見解にいたったのである。
すなわち、神を信じ続け、その結果としてペストを受け入れるということである。その思想を貫徹し、彼は、自らがペスト(疑わしき症例)にかかった時、治療を拒否して、死を受け入れるのであった。
オトン
刑の決定に厳しい予審判事であったが、息子の死の後、仕事を休み、保健隊で活動する。
カステル
高齢の医師。血清づくりに奮闘する。
コタール
過去の犯罪を調査され逮捕される恐怖と孤独感で自殺を試みたが、ペストにより他の人々が自分と同じような気持ちになって、安心し、このままペストの状態が継続することを願っている。
リウーの母親
息子への忠実な愛を持ち、静かで冷静。戦ってはいないが、すべてを受け留める。この小説で特異な(キリスト教的ではない)慈愛に満ちた聖母的存在。
タルーの生き方
わたしが、なぜタルーに魅かれるか、タルーの発言を紹介したい。
ゆっくり読んでいただけるとありがたいです。
誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。<中略>ひっきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの・・・健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ。<中略>ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだもっと疲れることだ。
さしあたって、 僕は、自分がこの世界そのものに対してなんの価値もない人間になってしまったこと、僕が人を殺すことを断念した瞬間から、決定的な追放に処せられた身をなったことを、知っている。<中略>この地上には天災と犠牲者というものがあるということ、そうして、できうるかぎり天災に与することを拒否しなければならぬということだ。
そして、心の平和に到達するためにとるべき道は、「共感である」と話す。
タルーがリウーに自らの話をした後で、二人で海に飛び込んで泳ぐのだが、これが、また青春小説のように青臭くて、心打たれる。
わたし、生きることの総体として、常に、「ペスト患者」イコール「殺す側=広義で言うと虐げる側」に属したくないと思っています。しかし、それはとてもたいへんなことで、気付かぬうちに殺す側にいます。
黙っていることも「殺す側」にいることになることもあります。いじめなど典型的です。
絶対タルーの言う通り、「殺す側」にいないと努力することは疲れます。常に抵抗が必要です。
そして、殺す側にいないということは、力を持たないということであり、ある種孤独ということであります。
しかし、ペストを読んで応援団がいるように思えました。
そういえば、小田実に文章に「殺す側の論理」というのがありましたね。Amazonで出てきません。なんでー!!廃版??
保健隊の現実は?
市民をペストの蔓延から守るために、タルーが保健隊を組織し、それは機能したようです。
リウーは評価しつつ次のように述べています。
美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い讃辞を悪にささげることになると、信じたい
これも正当な評価であると思います。
わたしが気になったのは、組織というものはどうしても権力が入り込むということです。リーダーと決断が必要です。
保健隊であれば、人を助けるときの優先順位とかもろもろ決定が必要で、そこにタルーが憎む、少しでも人を殺すことにつながる決断や行為はなかったのかな?
保健隊の活動を描くと、タルーとの矛盾が見えてくるはずである。
そこが、さらっと流されたことが、この小説が残念ながら文学の域をでず、社会科学的に突き詰められていないという不満を残す。
タルーの行動は、所詮メルヘン・・・?
最後に 文庫本の昔と今
どうでもいいことなんですが、わたしが読んだ新潮文庫は昭和60年印刷のものでした。字は小さいし、文字がいかにも活版というムラやにじみがあります。老眼にはつらいけど、この本の形態もいいですね。
写真に撮ってみました。
ちなみに、下は今回購入した平成18年改版、令和2年印刷の「シーシュポスの神話」
本の感想というのは常にそうですが、文章力がないこともあって、1週間やそこらで、意を尽くしたものは書けません。
しかし、いつまでも自分の中だけで推敲を続けても(グランみたい)、前に進まないと思うので、不十分なままで公開することにします。
興味を持たれた方は是非読んでください。「意見が違うよ」というようなことも聞きたいです。
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