苦しみや悲しみにシュトラウスを歌う 良知力「青きドナウの乱痴気」あとがき
もう35年以上前になる。学生時代のこと。
その道では立派な研究をされていた良知力先生について、関心はあったが接点はなかった。
無口な方だったらしく、その先生のゼミではほとんどが沈黙。「良知ゼミごっこ」といってずっとしゃべらない遊びがあるという伝説があった。
先生はある年、病気でずっと休講だったのだが、一度講義が開催されることになった。年度途中の最終講義。その講義を取っていなかったが、講義を受けに行った。
1848年のウイーン革命のときに撒かれたビラのことを話された。
特に自らの話をするわけでもなく、淡々とビラの話で終わったような気がする。
その年の10月20日にその先生は55歳で亡くなった。
11月に「青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年」という論文とエッセーの中間のような本が平凡社から出版された。
今は文庫になってます。
中身もおもしろいのだが、胸打つのは10月6日(亡くなる14日前)の日付のある「あとがき」。
先生がまだ貧乏学生で最初のウィーン留学の時、隣に住んでいたグレーテは小さい時に病気をして身長が1メートル8センチ、足に障害があり、貧乏留学生の先生の半額弱の年金で生活していた。家具はほとんどなくつつましい暮らし。
グレーテは親切で、先生と一緒に散歩したり、知人の家に連れて行ってくれたり親しくつきあっていたようだ。
そのグレーテの話の後に、ウィーンでの資料の収集について書いている。
続いて、自分の死の前に本を仕上げることができよう、奥さんや知人の力を借りた、そのことに対する謝辞。
そして、あとがきの最後の文章。
むかし貧しいグレーテは、小さな古ぼけたラジオでいつもシュトラウスのワルツを流していた。彼女自身もなかなかいい声でウィーン子らしくよく歌を口ずさんでいた。身障者で夫も子供もなく、孤独でしかも貧乏なのにいつも陽気で、明るくニコニコと振舞っていた。わたしが何気なくそのことにふれると、彼女は一瞬真面目な顔になって、「ウィーン子はね、苦しみや悲しみみたいなものはシュトラウスを歌いながらみんな喉の中に流しこむのよ」と言った。本書の冒頭で描かれているリーニエの外の民衆の暮しは、もちろん直接私たちが見たり聞いたりしたわけではない。だが、そのうちかなりの部分は私たちの若いころのウィーンの暮しと二重写しになって、いま頭の中をかけめぐる。あとがきを書くにあたって、万感の思いはグレーテにならってグイと喉から呑みこんでしまおう。シュトラウスが聞こえないのが残念だ。
「ウィーン子はね、苦しみや悲しみみたいなものはシュトラウスを歌いながらみんな喉の中に流しこむのよ」・・・万感の思いはグレーテにならってグイと喉から呑みこんでしまおう。シュトラウスが聞こえないのが残念だ。
わたしは、あまり苦しいことも悲しいこともない、のほほんとした人生を過ごしているのかもしれないけど・・・
苦しさや悲しみへの反応として、いつのまにかこのウィーン子になった。それからウィーン子を通してきた。いつもシュトラウスを歌ってきた。愚痴というのもほとんど言ったことがない。
これは、あとがきを読んだからなのか、もともとそういう性分なのかはわからない。
他人に対しては「ウィーン子になれ」とは言わない。苦しさや悲しみを口に出したり、行動で表したりするのは、むしろ、いいことだと思う。
でも、わたしはできない。たぶんずっとできない。
ただ、このあとがきをときどき思い出す。そして、たまに本棚から取り出して読む。いつも、なんだかわからない涙が出る。
このあとがきのことをいつか書き残そうと思ってたんです。
きょう書けてよかった。
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