私(40年前の大学生)とうちの子(3年前の大学生)の違い。「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を契機に。本を読むこと。知ること。議論すること。行動すること。
きょうもまた締まりのない文章ですが、読んでやってください。
24歳のうちの子は、三島の文章を好きではあったが、何を思ったか、この映画を見に行った。そして、思想の方向性は違うがどちらも日本をよくしようと真剣である三島と全共闘に涙したというのだ。
ふーん・・・
昔がよかったとは思わないという認識の上で、世代的違いを考察するには「一般」をよく知らないため、私とうちの子ということで「本を読むこと、行動すること」などについてケーススタディする。
わたしが学生だったのは40年ぐらい前のこと。
あのころは、政治思想的に右とか左がまだはっきりしていた。
本を読んでいた。友人や先生とさかんに議論していた。本を読まないと議論ができなかった。
社会科学系が専攻だったためか(周りはみんな社会科学系だったのでそれ以外の学生を知らない。)、社会科学系の本を読んだ。朝日ジャーナルなどは、学生が読むべき本リストのような特集をよくしていて、講義で出てくる本と併せて、そういう本を読んだ。
雑誌の本紹介欄で新刊書もチェックしていた。
教養というか思考の土台としてよんだもの
いわゆる古典(カント、ヘーゲル、ウエーバー、マルクスなど)。ギリシャ哲学、スピノザ、ニーチェは全く読んでいないし理解していない。
もちろん専門の歴史学の諸学派のもの
浅田彰の「構造と力」が売れたころで、構造主義のもの、ポスト構造主義のもの
当時東京経済大学にいた今村仁司氏(ポストモダンの第1人者だったのですよ。)の特別講義があった年があって、その知識と分析に驚いた。
ちなみに、当時今村氏に「それらの思想があなたの生にどうかかわっているのか?」と質問したかったができなかった。当時も知識と行動の関係性に問題意識はあったのだ。しばらくたってから、彼があんな研究をしていた意味がばくぜんと理解できたように思った。たぶん、私自身とそのような思想との関連性とその影響がぼんやりと理解できた時が訪れたのだ。
本を読むのは当然のことで、読まないと負い目を感じる文化があった。
一方、全共闘的流れを汲む(?)エコロジーやフェミニズム活動も広がっていて、友人の中には、カルガモ農法の田んぼの世話の手伝いに行っている者もいた。
そのような本と本を読む友人の世界から自分の世界観を作って生きてきた。
本から得た知識が自分の立ち位置や、物事の判断、行動の糧となっていくというスタンスだ。
私は田舎に戻ってサラリーパーソンとなり、ささやかに自分の興味があるものについて学びながら社会とかかわり、今に至っている。
私の学生時代から世界は変わった。
ベルリンの壁が壊され、ソ連系共産主義が力を持たなくなった。各地域での民族主義の高まり、東西問題ではなく、テロという新たな暴力的脅威が目立ちはじめて、右・左ということではまったく政治や思想が語れなくなった。
うちの子は20世紀末に生まれた。
保育園の時、9.11があって、当時絶対に外国には行かないと言っていた。テロが起こる可能性は子どもにとって身近なものとなった。
また、最後のほうのゆとり教育世代で、みんなと仲良く、差別や逆に優越感もなく、いわゆる立身出世の希望とも無縁の子どもだった。
部活や趣味を楽しみだらだらと生きていた。
大学生の頃も、ゼミも楽しそうにしていたが、私と比べると絶対勉強不足だと密かに思っていた。本も読んでいなかった。しかし、それで困ったこともなさそうで、私の時と違うのだと思っていた。
縁があって始めたバイトは小規模な飲食店だったが、4年間続け、提案をし、改善をし、販売戦略的なものに積極的に関わらせてもらっていた。
私には到底まねできない。
会社員となって、会社のためになるようにいろいろ考えて一生懸命働いているらしい。これまだびっくり!!
しかし、法令順守の上、100%残業代はもらい、自分の権利はしっかり確保することが前提であり、対等な雇用関係での社畜だとのこと。
見たこともないが、Twitterをしていて、2000人のフォロワーがいるらしい。
彼女は彼女なりの世界観を持って生きている。
彼女は、私のように本を読んではいないが、生きていく中で別のものから情報を得て、考え、選択している。それで「もっと本を読んだ方がいいよ」とか言う気はなかった。
ところが、彼女は、コロナで家にいる時間が長い中、東大生のやっているクイズ番組をYou Tubeで見ていたところ、その人たちの知識の多さにびっくりしたらしい。そして、自分がいわゆる知識がないことに気づいた。そこで、読書をはじめたというのである。
「今まで感覚的な確信で意見を言っていたけど、知識に基づいたものの方が説得力があると思った。」
「おかあさん、東大生が読むべき本として一番重要なのは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』といってる。知ってる?」
私「読んだ。ウエーバー的事象整理の方法論は重要。また、内容的には資本主義が発展した西洋的精神性だよね。日本にも独自にそのような思想はあった。だから日本も経済的成長が可能であった。(と解説)」
「えー!なんで読んでるの?」
私「いや・・・常識というか・・・」
思想と行動は人間個人の意思に基づくものだ。しかし、それを整理するにあたっては、先人の功績の上に行う方が省エネである。
その意味で、うちの子が本を読み始めたのはいいことなのだと思っている。
その後日、次のような会話もなされた。
「マルクス主義やソ連共産主義についても知りたくて、トロツキーを買った。」
「何読んでいいかわからんかった。」
あとで調べると確かにトロツキーに「ロシア革命史」という著作があった。タイトルで決めたのだろう。彼女はもちろんレーニンとトロツキーとスターリンの思想や行動の違いも知らない。
「どうやって読む本を選べばいいかなあ・・・」
昔あったような「大学生が読むべき本」という類の本の存在も知らないらしい。
私の偏見で、とりあえず、佐藤優の「獄中記」と佐藤優と立花隆との共著「ぼくらの頭脳の鍛え方」を紹介した。私も最近のことはよく知らないので・・・
以来、本を読んでいるらしい。
本を読んで思想の基礎を作ることは重要。だが、本を読むだけでは意味がない。そこから、考え、行動することが重要。
私なんか、少々読んでいて、何の役に立っているか?いろいろな事態に対処することには影響しているけど、たったそれだけなんだよなあ・・・という自虐的気分がある。
といいつつも、やはり本により知識はあってもいいと思う。
そういう意味では、彼女が本を読み始めたのはいいことだと思っている。
しかし、本を選ぶトレーニングをしていないうちの子は効率的な読書が難しい。本を紹介してくれたり、本の内容について語り合える人がいない訳です。今どきの情報の集め方を試行錯誤しないといけないかも。
最後に、議論することについて
私の学生時代には、自分の利益に直接関係ない観念的なことについて「議論する」という文化があったのである。
先日の「三島由紀夫VS東大全共闘」のDVDについて、私は子どもに尋ねた。
「あなたはああいうイデオロギー的な観念的な議論をしたことがある?」
彼女の世界では、学生時代もそのような議論はなかったらしい。そもそもイデオロギーの対立もないし、周りの人も観念的なものへの興味も持っていなかったらしい。
映画館には60歳過ぎたようなオジサンが多く、若い人はすくなかったらしい。
学生たちの議論が映像に残っているだけでも、歴史的価値があると思う。歴史的遺物とはいえ、うちの子は学生のああいう観念的議論に触れることができてよかったと思う。
今どき、あのような議論が必要なのかはわからないけど。
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