「育ちがいい人」という言葉はサベツや格差の意識を拡大する。
最近、Yahooのトップ画面で“「育ちがいい人」がどうたらこうたら”という読み物をよく目にする。
中味は、「育ちがいい人」は、人から嫌われず、会社の上司や同僚から好かれ、信頼され、お客さんからも信頼され、営業成績もよく、だから評価され出世して・・・または、ママ友から好かれ・・・立ち居振る舞いがきれいで・・・というような薄っぺらい処世術的な効用と、「育ちがいい人」が具体的にどんな行動を取るかも簡単に書かれている。
知らなかったのですが、こういう本が2020年に売れたらしい。
本来は批評というものは、原典を読んでするものであるが、私は読んでいない。だから、このブログはこの本の批評ではない。
「育ちのいい人」という言葉が流行っている、あるいは流行らせている風潮への批判である。
まあ、しいていえば、「育ちがいい人」だけが知っていること」というタイトルは気に入らない。「だけが知っている」・・・選民思想的。
さらに、この本の帯の「お受験・婚活で成功者続出!『良家』で必ず教えられる、ふるまいと心遣い 品と特別感がにじみ出る!『育ちの良さ』は一生の武器」という文句は、ひどい。チョー下品!!
ちなみに帯の文句はこの後、「今からでも育ちは良くなる!」と続くのだが、このことについてはあとで述べる。
「育ちのいい人」の反対はもちろん「育ちの悪い人」である。
そして、普通「育つ」という言葉は、成長期にある子どもに使う言葉である。
とすると、これを読む大人はもう育ってしまっている。
「育ち」から人を評価することになると、過去は変えられないので、ある人々にとって、「育ちが悪かった」と自分は終わった感があるのである。また、他人がいいことをしないとき、「この人は育ちが悪いから」という固定的な評価をしがちとなる。いいふるまいをする人を見ると、「この人は育ちがいいから、こんなことできるのね・・・」をいう判断をしがちとなる。よい行動の原因として、変えることのできない「育ち」を持ってくるわけだ。
考えや行動が「育ち」に基づいているのなら、人は固定的な生き方しかできず、努力は意味がなくなる。努力する意欲がなくなる。
ところが、「育ちがいい人」論者は、「今からでも育ちは良くなる。」というのである。
そうじゃないと、だれも本は買わんわな・・・
???
だったら、なぜ、「いい人になる」本じゃいけないの?「いい人になるための行動を指南する」ではいけないの?
大人になって、いい人にはなりたいけど、「育ち」はよくなる必要な全くない。
この本の帯やネット記事に書かれている「いい人」はわたしのなりたい「いい人」じゃないけど、そこは価値観は人それぞれということで、スルーしましょう。
「いい人がしていること」なら、本のタイトルとしても良いと思いますよ。
あえて、「育ち」を付けているところがいやらしい。自分も他者も固定された特性や人格を持って変えられないという響きを与える。
階級主義的で、貴族主義的な価値観で人を判断する言葉である。
「育ちが悪い人」をサベツし、「育ちがいい人」が特権を持っているかのよう意識を助長する。
日本において経済的格差が増大し、貧困が切実な問題となっており、それに対していろいろな取り組みがなされつつある今、なぜ、あえて「育ち」という言葉をクローズアップするかなあ・・・
「育ちがいい人」、「育ちが悪い人」という論理構造は、親が高学歴で安定した収入がある人しかよい学校に行けなくって、親がダメだと(何をもってダメなのかは置いといて)よい仕事にも就けなくって、親の生活を子が繰り返すという論調8(つまり、子どもは親と同じに再生産される論)を肯定するかのように見せる。
その言葉をあえてなぜ今使うか?
本の中では、素晴らしいことが書いてあるかもしれないが、この言葉が独り歩きして、差別や社会的格差の意識を助長することが十分想定される。
だから、
「育ちがいい人」について語るのは止めませんか?
サベツ用語は使わないとみんなが気をつけているけど、差別を生む心情を作る言葉を使うことも止めませんか?
わたしには、「育ちがいい人」という言葉にはサベツの匂いがプンプンする。
人間は悲しいことに差別はよくないと言いながら、次々に新手のサベツを思いつくのです。といっても、これは家柄・身分といった古い価値観に基づくサベツですよね。よく、昔の小説やドラマであるじゃないですか。あの人はウチの家柄が合わないから結婚を認めません!みたいな。
わたし、実際に使っている文脈を知らないのですが、「親ガチャ」という言葉も流行っているらしいですね。
今の日本の中の世界観として、「育ちのいい人」グループと「育ちの悪い(育ちがいいわけではないを含む。)人」グループに2分化されているように感じる。
「育ちの悪い人」グループには少なくとも2種類の行動を取る人がいると思う。
「育ちのいい人」グループへの編入または、「育ちのいい人」グループメンバーのふりを目指して、上記の本やネットの記事などを読んで努力する人。
どうせ「親ガチャ」だからと、自分のことを親のせいにし、親や育った環境に自らを閉じ込めてしまう人 イコール 「育ちの悪い人」グループにとどまって、しかたないと思っている人。
どちらのグループのメンバーかは重要じゃなくて、そもそもそんなグループは存在しないのであって、既存のものとして自分の過去の環境を受け入れつつ、今、現在自分が納得のいける生き方ができるよう努力して、いい人、素敵な人になろうとすることが重要なのではないか。
「育ち」という言葉にとらわれてはいけない。
重要なのは、現在であり、未来である。
だからこそ、「育ちのいい人」という言葉が流行るのはヨロシクナイのである。
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