過度な「ありがとう」は必要ない。優しい社会
きのう、ネットでこの記事を見ました。
私は車で通勤が長かったので、サンキューハザード(私はニコニコボタンと呼んでいる。)についてよく考えていました。
「こんな時は(進行を)譲ってあげるの当然だよな」というとき、わたしはサンキューハザードをしなかったし、してほしいとも思っていませんでした。
一方、無理に突っ込んで割り込んできて、サンキューハザードをする人にはけっこうムカついていました。サンキューハザードをするよりは「待とうよ」!なんでも「ありがとう」といえば済むわけじゃないよ!
そして、ちょっと別の話。
うちの子が小学生の時、「人なら当然しなければならないことをして、ありがとうを言われるとかえってバカにされたような気がする」と話してくれた時があって、妙に心に刺さったのです。
人は助け、助けられて生きていきていくのだ。
「ありがとうは要らない」と言い切ると語弊があるが(だからタイトルは「過度な」を入れました。)、感謝の気持ちを持つことは必要だけど、「ありがとう」を言わなければいけない社会はガチガチの人間関係の居心地の悪い社会だと思うのです。
「ありがとう」の関係はそこで完結するのではなく、助け必要としている別の人との次の場面につながっていくものなのではないか。感謝の気持ちを次に出会う人への行動に繋げていくというか。
気持ちは「ありがとう」と言わないと伝わらない、それもわかります。「ありがとう」の言葉が社会を円滑にする、それもわかります。会社とか表面的な社会と心の通う社会との違いかなあ。表面的な社会の中では必要なことかもしれませんね。
でも、人として当然のちょっとしたことをして、「ありがとう」と言われたいですか?
もしかしたら、ポイントは過度な、おおげさな「ありがとう」かもしれない。
また、ちょっと別のパターンを考えてみる。たとえば自分が本当に必要なくて家の片隅に押し込めているものが、誰かにとって必要なものの時、わたしはその誰かにあげます。「どうぞ使ってください。使ってくれてありがとう。」です。ところが、その方が、お礼とか言ってわざわざ用意したお菓子とか何かをくれそうなとき、これは必要ない、何かがおかしい、と感じてしまうのですが、いかがでしょう?
「ありがとう」の言葉だけにこだわっているのではありません。
難しいことだけど、自分を取り巻く社会では、他人を思いやりながら且つリラックスして生きていくことのできる信頼関係のある優しい社会や人間関係を目指したいと思うのです。
<蛇足>今やうちの子は上で書いた自分の言ったことも忘れて、世間にまみれて、「ありがとう」を連発していると思っています。
ランキングサイトに参加しています。
↓よろしければポチッとお願いします。