ウィル・スミス アカデミー賞事件で【つい手が出てしまう】【つい大きな声を出してしまう】ことについて考える。
ウィル・スミスのアカデミー賞授賞式の行動が問題になっています。
つい手が出てしまったのでしょうか?
今検討されている処分の問題は、うわっぺらの建前の行動にしか見えないのは、わたしだけでしょうか?
映画には暴力があふれている。
今はそうじゃないのだろうか?
映画には犯罪もあふれている。
なぐったり、殺したり、おどしたり、怒鳴ったり・・・
あれをスクリーンだけの世界にしようとしているのか?
人はああいうシーンをおもしろく(愉快でないにしても手に汗握って、あるいは共感して)見ているわけです。
フィクションと現実は違うということでしょうか?
フィクションでワクワクする人間の本質ってなに?
カッとすると、つい手が出る人がいるようです。あるいは、つい手が出そうになるけど、我慢することも多いようです。
がまんできることは素晴らしい。ウィル・スミスにもこれが求められたのでしょう。
ところで、わたしは、カッとしても、つい手が出る衝動はありません。
感情と体がリンクしていないのでしょうか?
つい声を荒げてしまうこともありません。
カッとしたとき、どういう行動を取るかというと、
相手への反論が頭の中で文章として浮かびます。
反論の根拠、相手への感情、謝罪の要求、こちらが受けた「カッとさせたこと」に対する償いの要求、をどう言葉にするか考えています。
その思い浮かんだ文章をすぐに相手にぶつけることもあるし、時間がたって、相手に話すこともあるし、何も言わずにいることもあります。
相手に言うことに決めたら、これがネチネチした意地悪なことばになることがあります。こっちが不愉快な思いをしたのだから、意識的に仕返しをしているのです。これは仏教的にはイケナイことです。が、してしまいます。
衝動的ではないが、根に持った発言。性格悪っ!!
あまりに、生物としてのレスポンスに欠けているのではないかとも思います。
しかし、このような行動が、アカデミー賞で望まれるのでしょう。
ウィル・スミスがあそこで我慢して、あとで、発言したヤツとそれを笑っていた人々を糾弾すれば、映画界での容姿に対するいじめ撲滅キャンペーンのリーダーになったのでしょうか?
わたしが、どのように、【つい手がでてしまう】能力が身につかなかったのかはわかりません。
性格か環境か、あるいは動物的本能の欠如かもしれません。
そういえば、映画の中でも暴力シーンは好きではありません。
動物は身を守るために体や声を使います。
お猿さんから発生した人間は、人権を擁護する、差別はダメ、暴力はダメという方向に努力していますが、本当にその方向で間違っていないのか、不安になります。
人権意識が高く、差別は許せなくって、暴力はしない、できない、わたしのような人間が形成されていて、現代教育が作ったスバラシイ人間のようではあるんだけど、自分が不安です。
もはや、生物としての何かを失っているのではないか?
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