障がい者、健常者と線引きがあいまいな世界になってほしい。
パラリンピックが始まったので、日頃感じていることを書きたいと思います。
私は、人を障がい者と健常者に分けるのが嫌いです。
障がい者と言われる方は、日常生活に不便があり、たいへんなことが多いから、「障がい者」として、障がい者手帳を取得したり、日常生活におけるケアが必要なことがあるのはわかります。
きょうの本論とは少しずれますが、ここで、声を大きくして言いたいのは、障害があるのは人ではなく、社会であるということ。多数派に合わせた社会となっているので、暮らしにくい人がおられるということです。
きょう、話題にするのはいわゆる「健常者」という人のことです。
自らを「健常者」という人に違和感があります。
健常者って何?
「健常者」ということばは、今の生活において特別ケアは必要ないという意味で使っているのだとは思います。
でも、自らを健常者だと言い切ることは自分が社会の多数派に属しているという安穏とした感じがするのです。
私は普通だぞ!障がい者ではない!と線引きしているように感じて嫌なのです。
「障がい者」が、今の社会で生活しにくいことはわかった上であえて言えば、障がい者手帳を持っていない「健常者」も、生きにくさを感じている人は多い。
また、ある部分が多数の人と違っていて、その違いで困ることがある。苦手なこととか、病名としては深刻ではないが本人はきついとか。
わかりにくいかもしれないので、例示します。ベストな例示とは思えませんが・・・
例えば、うちの夫は、計画を立ててその通りするのが得意です。また、物事を習慣化してそれを繰り返すのが得意です。突発的なことやいつもと違うことに対応するのは苦手でうろたえます。
うちの子は、小さい時アトピーがひどくて痒くて、「気をつけ」のような状態でじっとしているのはものすごくつらかったらしい。
わたしは、数字を音にするのが苦手で、書いた数字はわかるのですが、読まれた数字はどの数字なのか理解しにくい。自分で数字を読むのも苦手。電話番号を電話で聞いても2回に1回は間違える。数字の読み合わせの仕事はミスだらけで仕事になりません。
こんなちょっとしたことの積み重ねや程度の大きさで、生活にしていく上でつらいことが、人それぞれあるような気がするのです。
うちの子が小さい時は、わたしは、障がい者と自分は変わらないのだと伝えるために、「みんな苦手なことやくせや困ったことがあるのだから、みんな障がい者なのよ。障がい者というのは特別なことではない。」と言っていました。これが正しいとは言いきれませんが。
自分のそういう困っている部分をはっりきと意識して、ほかの人に対しても、「私と同じではないかもしれないが、なにか苦手があるはず。」と想定して、向き合う。
そういう他者との向き合い方ができるようになると、自分は「健常者」、「障がい者」という線が曖昧になってきて、「みんなそれぞれ違っている。」ことを常に配慮した人間関係や社会ができていくのではないかなあ。
「自分はこれが苦手なので、これを得意な人がやってください。」・・・「いいよ。」
その逆もありで、「わたしは、これはできるからする。」・・・「お願い。」
「わたしはこれが苦手なので、ゆっくり取り組むから、待っててね。」・・・「いいよ。」
・・・みたいな・・・
加えて、インフラもできるだけ多様性に配慮して。ユニバーサルデザインを推進して。
人と人で成り立つ社会を、他者の違いを認め合い、思いやりのある社会にしていきたい。今、進みつつあるから、「さらに」ということでしょう。
そうするうちに、健常者、障がい者という線引きが、どんどん薄くなっていうのではないかと思っています。
こんなことを書きながら、つい自分中心の価値観と行動によって配慮のないことをすることがあるので、常に自分を戒めていかないといけません・・・・
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